昭和五十四年一月二十五日 朝の御理解


御理解第八十八節
 「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである」


 私はこの八十八節は、いよいよ八十八節で広がりに広がって行く、おかげの頂ける一つのキ-ポイントだと思うです。これは只、表面だけを頂くと、これは、も、信心のない者でもこういうふうに言いもするし、思うてもおるんですけれども、なかなか実際実行はむつかしいですが、これを事、信心で頂いたら素晴らしいことです。それは、神様を信ずるからどんな場合でも動揺しない、神様を信ずるから、いうなら悪い顔を人に見せる事はない。ね。ない事もなかろうけれども、教えの鏡を立てらしてもらうと、あっこれはむしろ、お礼を申しあげなければならないところだ。反対におかげを頂いておる。いうならば、神愛にふれて行けれるという事ですから、もうそういう生き方を身につけたら、もう間違いなく広がりに広がっていく繁昌のおかげにつながる事でしょう。
問題は、その神様を信ずるという事なのです。神様の働きを信ずるという事なのです。
 昨日は上滝さんの所の、恒例の謝恩でございましたが、もう椛目で上滝さんがあのようなおかげを受けられてから、この方ですから、もう、やんがて三十年近く毎年、続けられておるお祭りなんです。そして、ここ三十年間のことをず-っと思うてみると、もう、やはり一年歳々おかげを頂いておるという事実です。
私は昨日あちらへ参りましてから、本当にあのう、一つの大収穫をさせて頂いた。と思うことは真の信心ということが、もう大変にむづかしい。まあ、お互いがその信心を目指しておるんですけども、真の信心にふれられずにとうとう、おしまいになっていくという人がどの位沢山あるやらわからない。私は、今迄頂いておる真の信心とは、安心のおかげを受ける事であります。と三代金光様は教えて下さってありますけれども、この安心のおかげの頂けれるというところ迄のことですから、ま、大変ないうならば、この安心のおかげというものは頂けません。ね。
私は昨日その事を頂いてから『ここ、上滝家の信心こそ真の信心だ』と頂いたんです。いや、真の信心の、いうならば、ま、ね、限りがないですけれども、その入り口に入った信心だという意味の事を頂いたんです。ね。皆さんも御承知のように、大して熱心に、なかなか心がけのよい人ですから、そりゃ心がけは非常に強い人です。よい人です。もうそりゃ、それこそ黙って家を治めよ。という家の治め方を見ればわかるです。そりゃ、あの上滝さんがおかげを受けられた時には、も、当時の椛目がゆるぎました。また、亡くなられた時にも椛目がもう大動揺しました。もう信者が半分に減りましたからね。あの時は。ね。それはもう、医大の結核の権位と言われる何とかという有名な先生が、もう時間の問題と言うて往診にわざわざ、来て頂いてね、そう言って帰られた。それから助かったんですからね。もうそりゃ、本当にしんどいもんですたけれども、おかげを頂いて、も、本当に神様のあらたかな、いや、当時の椛目の神様のあらたかな事と言うて、それで非常ににんなが元気づいたり、沢山のまた、信者がそれによって出来たんです。あの人が助かるという者は一人とてなかったからです。
どこへ例えば参っても、もうこの方は寿命が来とると言われとった。お伺いどころなんか行ってもね。それが助かったんです。そして、まあ、あそこで何年間でしたけども、西鉄に復職のおかげを頂いて、もうそれこそ、ま、本当に上滝さんじゃなかばってん、私がとは結核じゃなかったやろ。と言う位なおかげを頂いたんですからね。
それで、神様のあらたかなことがわかった。ところが今言うように、も、とにかく、あっという間に亡くなられたんですからね。も、本当にあっという間でした。ね。
この頃御無礼しとっけんで、今日は朝の御祈念にお参りすると言うて上滝さんが起きられた。したら、今の上滝さんが、いいじゃないですか。今日参らんでんいいじゃないですかと言うて、手を引っ張ったのと息の切れたのが一緒じゃったち。そりゃもう、上滝さん自身がそう言われるのですからね。今の上滝さんが言われるのですから本当でしょう。アもスーも言うひまがなかった。冗談にアーち言いよんなさるとかち思ったら、も、それが息の切れた。ね。勿論、それまでには、いろいろな事がございました。けれどもそれは、ま、それとして。ね。そういう時にです、もう、んならば、やはり私がつは結核じゃなかったちゃろ。私のつは、もうようなるようにしてようなっとったちゃろ。でなかったら、なら、こういう死に方をするはずはない。もう神も仏もあるもんじゃなかばのとこう言うてもよいですけれども。そこからが偉かったですね。上滝さんは。もう一時が万事に、もういうならば、御神意をお伺いぬいての事でした。 丁度、長男が六年生、一番下のが四年生、息子の子ばかり四人。ね。それを段々おかげ。今年、一番最後の子供が小倉でしたかね。大きな病院のお嬢さんを。もうとても素晴らしい嫁です。も、どの嫁でも素晴らしいです。四人の。それも本当に、勿体ないようなところにからもらい、また行ったりしとります。一人は養子に行ってる。というようにですね、おかげを頂いてきて、昨日は私は、ここから修行生の先生方が、五、六人行っとりましたから、離れの私が居る部屋に一遍、お直会前に全部よびましてね。もうこれがね、あのう女一人。とにかく男がおったっちゃ、生活でも大変だというのに四人の息子に、それぞれの教育をして、それぞれに一人一人、きちっと妻帯させてそして、しかも年々歳々家がこんなに、例えば立派に繁昌しておるという事実。ね。結局、これは真の信心に依ることだよと。んなら、その真の信心とはどういう事かと言うとね。
例えばね、上滝さんがもう、死ぬか生きるかという時に、も、一生懸命お参りしたのは、助けてもらいたいの一心であったわけ。これは、おかげ頂きたいの一心。そして合楽。当時の椛目の神様の、あらたかな事がわかって、おかげで助けて頂いた。これはいうなら、おかげ頂くために一生懸命の一心であった。ところが、そのおかげ頂いたと言っておる矢先に、あっという間に亡くなられた。
さ、これからが、いうならば神を信じて、いうならば黙って治める行き方。それこそ家を治めよと言う。とにかく、普通な事は出来ん。百姓片手に化粧品の商売を、あの、外に売ってまわられる商売をさせて頂きながら、年寄をかかえながらばい、それも四人の子供をあんなに立派に育てあげた。そして、御普請も出来た。しかも年々歳々、蔵が出来た、離れが出来た。というように。しかも私の方は、も、合楽と同じで、も、回遊式だ。庭がぐるりぐるりと全部、庭師を呼んで立派なお庭まで作って、もう部屋の中でも、最近ではお茶、花、書道、それから絵まで稽古しとる。ま、優雅な、いうなら生活ですよね。それでいて、そんなら家の中の治まりようというなら、そりゃもう。いうならば、実際行ってみなきゃわかりませんですね。子供達も、四人の子供達が、お母さんが一生懸命苦労しましたから、四人ながら揃うて、とっても良いです。親孝行です。そこでね、私が昨日、おかげを頂いた。というのはね、その真の神徳というのはね、おかげを頂いて、おかげを頂くから何十年、一生続いたところで真の信心にはならない。私の、これは持論ですけども。
 真の信心をすれば、真のおかげが必ず伴う。というのが私の持論なんです。そんなら、そして私は昨日、成程と思ったことはね、真の信心を、成程神様は真の信心と言われるが、真の信心したからこそ、なら三十年余りの間に年々歳々、いうなら、それこそ一年一年おかげを、今日の上滝家があるという。ね。それは、一番初めはおかげに終始した信心であったけれどもね、主人が亡くなられてからこっちというものはね。いうならば真の信心であった。おかげを受けるからというのではなくて、いうなら、おかげがありがたいのではない。信心がありがたいという信心になった。という事が真の信心です。みなさん、ここんところですよ。ね。おかげがありがたいからと言うて、もうそれこそ、昼参り、夜参りさせて頂いてお話しを、例えば頂いてもです、真の信心にならなければ、真のおかげは伴わないです。何かすりゃすぐ迷う、どうかあるともうグラッとする。と言ったような事じゃなくて、これはね。そこから信心も頂いていこうとする姿勢の信心を、真の信心のいわば入り口である。で、昨日また家族の者全部が挨拶に来たから、言うた事でしたけれども。 この信心がいわゆる、子供にもみんな伝わっていかなければならない。ね。だから、これからは、いうなら上滝家の、いうならば、日勝り月勝り年勝りの、おかげを頂いてきたのであるからね。これが代勝りのおかげを頂くためには、子供達が信心を継承しなければならない。そして例えば、今日のお祭りを境にです、ね。上滝家の為に、神様がおかげを下さったんですから、神様にお喜び頂けれるような信心を目指してもらわなければいけないよね。
真の信心によっておかげを頂いてきた。これからは、真の信心によって徳を受けていかなければいけない。というです。ね。
日参教聴。ね。心行、家業の行によって、どうぞ日勝り月勝り年勝りのおかげを頂かせて下され。そこから、信心の真を表して、ね。信心の真を表して、代勝りのおかげにもつながりますように。
真善美に輝く、または貧争病のない世界に住まわせて頂ける程しのおかげを下されというのが、いうならば、このお祭りを境から、そうね、真の信心によっておかげを頂いた。ね。真の信心すれば真のおかげが伴う。これは私の持論です。ね。だから今度は、真の信心によって御神徳を頂いていくという世界に入っていくところにです、成程、三代金光様がおっしゃる、これからはいよいよ、安心の大みかげを受ける事でありますという事にでしょう。どんなに良い信心のようであってもです、ね、おかげを受けるという事の焦点の信心なら、それは真の信心ではない。おかげを受けるからの信心は、真の信心ではない。信心は頂く。信心がわかるからの信心。信心がありがたい。おかげも勿論、ありがたいけれどもただ、おかげがありがたいからに終始した信心は、これは信心じゃない。ね。だから、信心がありがたいと悟らしてもろうての信心。これがいわゆる、真の信心の入り口なんだね。
いつも言うように、これが完璧にね。例えば、なら、生神を目指すと言うても生神にならなければ、おかげはやらんとおっしゃるのじゃない。生神を目指すという一心発起が出来たところから、もうおかげは始まる、徳は段々ついてくる。ね。信心がありがたいとわからして頂いて進めていく信心を、ね、真の信心という。その真の信心には、だから真のおかげがつかないはずがない。ドンブリがない。受けたり、受けなかったりがない。三十年近くの間、一年一年ず-っと、いうならば、おかげを受けてきておるということ。
成程、まことの信心だなということ。真のおかげがついてきておる。ここを境に、もう親としての、なら、子供達の上にも親としての責任が、ある意味あいで済む程しのおかげを頂いた。家もこれ以上に立派にせんでよかろう。ね。だからこれからは、その真の信心がです、ね。今度は、神様がままになられる事の為の、信心に心がけさせて頂くならば、真の信心によってお徳が受けられるということだと。今日の八十八節も、広がりに広がっていく。広がったり、広がらなかったり。おかげ頂いたり、おかげ落としたりというのじゃなくて、おかげを頂き続けていくことの為に、いよいよ真の信心を目指さなければならない。ね。その段階においてです、ね。いうならばお徳を、真の信心によってお徳を頂いていこうという、また、信心にもならなければいけない。そういうように、神様を信じれる時に、そういう確信が出来てくるときに、私は黙って治める。ね。
悪い顔をせずに家を治めよ。という事であるというね。これは只、心の中にグウグウ言いながら黙っとくというのじゃなくて、神様を信じれるから、その確信があるから、黙って治められる。いや、むしろその事に対して、御礼が言えれるようなになってくる時に、家が治まらないはずがないね。どうぞ一つ、真の信じんとは、実はこんなにも容易という事が、ま、昨日明らかになったという感じです。言うて来ました。真の信心。
真の信ちゃなかなかとこう思うておった。ね。けれども、おかげがありがたいのではない。信心が有難いとわかって、信心が進められる所には、ゆるぎがない、迷いがない、挫折がない、ね。信心が有難いのですから、挫折しなければならないごたる時に、当たれば当たるほど、信心の勢いというものは出てくるものです。信心はね。信心がありがたいとわかった時に、もうあなたは、真の入り口に立った。これをいよいよ進め立てていけば、八十八節である。も、広がりに、広がっていくおかげが約束されるという事になります。
もう一遍、私たちの信心は、私の信心は、信心が有難いけん合楽にお参りしよると思うておる人も、もう一遍思うてみてですね、確かめて見てですね、本当に自分は信心がわかりよるか、信心がわかりよる。信心が身について行く事が、合楽参拝の元になっておるかと、確かめて見なければならんと思うですね。
どうぞ